本日は、ブロガーのオンラインサロン「ヨッセンスクール」12月の共通テーマ、「失敗から得た教訓」について書いてみました。
やりたくない嫌なことを頑張って何とかやっていくのが人生だ
子どもの頃から長年、やりたくない嫌なことを頑張って何とかやっていくのが人生だと思っていました。
だから、生きていくのが苦痛でした。
「やりたいこと」は、やりたくない嫌なことをちゃんとやってからはじめて持っていもいい贅沢品だと思っていました。
だから、何をやりたいのか問われても、毎日やりたくない嫌なことをするので精一杯で疲れ果ててるんだから、そんなこと聞かないでよ、って感じでした。
私は何をやっても決してうまくいかないだろう
もう一つの信念は、私は何をやっても決してうまくいかないだろう、というものでした。
だから、まったく何の希望も持てませんでした。
そうなんです。この2つはただの考え方じゃなくて、私の信念でした。
そんな調子なので、何のために生きる(=やりたくない嫌なことを頑張ってする)のか、全然わかりませんでした。
自分を不幸にする信念に気づくことと、それを捨てることの間
冷静に考えたら、この2つの信念をもって幸せになることは不可能です。
でも、長年そのことにまったく気づきませんでした。
というか、自分がそういう信念を持っていることにすら無自覚でした。
自分を不幸にする信念に気付いてからは、そこから抜け出したつもりだったのですが、物心ついた頃からの価値観だったので、完全には脱却できていませんでした。
この信念のヤバさを頭では理解したのですが、実感するには時間がかかったのです。
やりたいことをやって生きている人と家族になって過ごすうちに、初めて腑に落ちるようになりました。
夫が、この2つの信念とは無縁な人で、私にはない健やかさを持っているのです。
彼は、自分のやりたいことのために、ものすごく努力する人です。
やりたいことを成し遂げるためなら、嫌いなことでも頑張ります。
挫折することもありますが、そこから這い上がります。
這い上がった先に何かが見つかると思ったそうです。
それで結局、再びやりたいことが立ち上がってきて、またそのために頑張るのです。
失敗しても、その過程に建設的な努力があるので、パワーアップしているように見えます。
彼は、自分が超興味あることを努力によって専門にしていて、専門の話になると、目がきらっとします。
こういう人と同じ舟に乗っていると、なんか今まで自分で自分に不幸の呪いをかけてきたんじゃないか、という気がしてくるんです。
家族じゃなかったら、「こんな生き方もあるんだなあ!」で終わっていたと思います。
それでも最初のうちは、
やりたくない嫌なことを頑張ってやっていかないと、さらに堕落してしまうんじゃないか、
生きていけないんじゃないか、
寝たきりになるんじゃないか、
「やりたいこと」なんてついに立ち上がってこないんじゃないか。
そんな不安があって、「やりたいことをやったらいいんだよ。」と言われても、「そんな、私をますます怠け者にしたいのか?!」と思いました。
でも、嫌なことを我慢してやってこの先ずっと生きていくのが本当につらくて、実はもう耐えたくなくて、同じ耐えるなら、嫌なことのためじゃなくて好きなことのために耐えたい、と思うようになりました。
というかそもそも、耐えることが最初に頭に浮かぶことこそが陰気な発想です。
「耐えること」は付随的なもので、なかったらなかったで全然OKです。
メインは「やりたいこと」、「好きなこと」にした方がモチベーションも上がるというものです。
まとめ
本当にやりたいことがあってはじめて、やりたくない嫌なことを頑張って何とかやることが意味をもつんじゃないか。
やりたくない嫌なことを頑張って何とかすることは、手段としてはありえても、目的にすると危険です。
不幸になります。
人生とは、やりたくない嫌なことを頑張って何とかやっていくことだ
私は何をやっても決してうまくいくことはない
この2つの信念は、失敗でした。
だから、もういい加減に完全に捨てることにしました。