やらずに後悔よりも、やって失敗して納得
やらない理由が、「もう遅すぎる」から、というのはもったいないことです。
やってみてできなかったのと、「もう遅すぎるから無理」と思ってやらないのとでは、気持ちが全然違います。
やってみて無理だったら、諦めがつきます。
なかなか諦めがつかなくても、やらなかった後悔はないのです。
でも、「もう遅すぎる」からやらなかったら、何年もたってから、「しまった、あの時はまだ若かったんだから、挑戦してみればよかった」となったりするのです。
やらずに後悔した経験
何を隠そう、私が「もう遅すぎる」と思ってやらずに後悔したくちです。
中1の時には既にかなり絶望していました。
- スポーツ → 中1から始めても、幼児や小学生の時からやっていた人たちには到底かなわない
- 計算能力 → 中1からはもう伸びない
- 語学力 → 言語習得臨界期はもう過ぎたから、バイリンガルにはなれない
- 音楽 → 中1から始めてもプロのピアニストやヴァイオリニストにはなれない
とまあこんな感じです。
中1の12歳の時から20年間スポーツや語学や音楽に打ち込めば、いったいどれほど上達したことでしょうか。
当時は全くそんな発想はありませんでした。もったいないことです。
「もう遅すぎる」と思って絶望するのは、人生を辛くする発想
とはいえ、英語はまじめに勉強したし、楽器もやりましたが、そんな絶望感とともにせずに、もっと楽しくすればよかったと思います。
その後も「もう遅すぎる」教を信仰し続けましたが、30代半ばを過ぎて、ようやくその囚われから抜けたと感じます。
30代後半で「もう遅すぎる」とか思ってたら、絶望しかないでしょう!
そんな風に発想するメリットがまったくないです。
何もその道の超一流になれなかったら無駄、ということはないんです。
だって、やってみたいんでしょう?
だったら、難しく考えずにやってみたらいいんですよ。
「もう遅すぎる」とか言ってくる外野は無視しよう!
「今さらそんな事したってもう遅すぎるから無駄、みっともない。」
そんな風に言われて人生に絶望したあなたがうつになっても、外野はあなたの代わりにうつで苦しんでくれたりしないのです。
他人と比べずに、過去の自分と比べよう
確かに20歳若い年齢で始めた人にはかなわないかもしれませんが、それは比べる相手が悪いのです。
始める時にいくつであっても、「もう遅すぎる」から始めなかった自分自身よりはできるようになるわけです。
挑戦してみてまったくできなかったとしても、「やってみたけど無理だった」という貴重な経験になります。
過去を見て後悔と絶望にさいなまれるよりも、未来に希望をもつ
実のところ、やってみて、やらない方がよかったと思う経験はあります。
しかも今もその悪影響をこうむっています。
でも、まあ自分の決断でやったんだから仕方がない、と思っています。別にそのことでくよくよしていません。
やってみなかった事で、その時期しか挑戦を許されない事については、ほんとにもったいなかった!と思います。
たぶん無理だっただろうけど、「やってみて無理だった」経験がほしかった。
それにひょっとすると、成功したかもしれない。
でも、後悔してくよくよはしていません。これからの事に興味があるからです。
比較しないところに希望が生まれる
延々と後悔しながら生きていくのは、とても辛いことです。
義務感だけで生きていくのも、辛いことです。
悲観的な人間が未来に希望を持つのは、難しいことです。
でも逆に、悲観論をやめたら、悲観的だった時にできなかった事ができるようになる可能性があるのです。
「もう遅すぎる」「どうせ無理」をやめて、やりたいことをやってみたら、進める。
進んだら、今まで見えなかったことが見えてくる。過去の自分よりも進歩できる、そのことに希望を持つのです。
あの人よりも秀でる、とかあの人たちに追いつく、とかいう希望である必要はない、そう思います。