森博嗣『喜嶋先生の静かな世界』感想 理系研究者の学問への献身の行きつく先

これはホラーなのか、神話的悲劇なのか、耽美小説なのか、愛の物語なのか。

憧れと陶酔、情熱の物語で、舞台は静かな世界。

芥川龍之介の『地獄変』を連想しました。芸術/学問への献身が、結果的に最も大切な人を殺してしまった、というところが。

しかし、それは単に私の想像であって、はっきりと書かれているわけではありません。

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内容、特徴

世界トップレベルの研究者を描いた小説です。

研究分野は理系基礎研究で、ひたすら実験する分野ではなくて、コンピュータと紙と鉛筆があればできる分野のようです。研究費やマンパワーがそんなに必要ない感じのジャンルです。

舞台は独立行政法人化される前の国立大学。

語り手はタイトルになっている喜嶋先生ではなくて、喜嶋先生の弟子である橋場君です。

作者の森博嗣によると、この物語には、モデルとなる人物がいるそうです。

橋場君のモデルが、名古屋大学工学部の助教授だった森博嗣自身なのかな?

喜嶋先生のモデルは、おそらく何人かの研究者たちなのではないでしょうか。

短編小説に『キシマ先生の静かな生活』があって、それの長編バージョンになります。

先に短編を読んで、これはぜひ長編を読まなければ!と思いました。

しかし、短編を読んで生じた、「なぜ、そういうことになってしまったのか?」という疑問は結局解消されませんでした。

森博嗣の小説では、丁寧に謎解きされないことが多いような気がします。

どこがおもしろいのか

橋場君がいかにして研究の世界に出会って、そこに足を踏み入れて、研究生活を送ったのか、理系の一分野の大学における研究の世界がいかなるものか、ということが、数学や物理がとても苦手で純文系の人間(私です)にとって、とてもおもしろく描かれています。

森博嗣の小説には必ず存在する引用は、この小説の場合、オイゲン・ヘルゲル『日本の弓術』からで、研究者の研究に対する態度が、武術の求道者の姿勢に重なります。

喜嶋先生は極めて「純粋な研究者」で、研究以外のことはおおむねお留守で、とても風変わりな人です。

橋場君も相当変わっているのですが、喜嶋先生に比べると常識人に見えてしまうのがすごいところです。

また、3人の女性が登場するのですが、それぞれの生き方がとても心に残りました。

ネタばれになるといけないので、ちょっとだけ紹介します。

一人目は、橋場君と同じ学科のクラスメイト、清水スピカ

学部卒業後、企業に就職する。

二人目は、橋場君と大学院で同じ研究室になった同期、櫻居さん

院入試で主席合格。(2番は橋場君)

橋場君の卒論が終わってすぐ、大学院入学前に、喜嶋先生にお願いして、橋場君を誘って3人でゼミを始める積極的な人。

『スカイ・クロラ』シリーズに登場する女性エースパイロットの三ツ矢碧とキャラクターが似ているような気がしました。

三人目は、大学の計算機センタの技官、沢村さん。「マドンナ的な存在」の美人で、「計算機センタでは最も計算機のこと、プログラミングのことに詳しい。」「とにかく、頭が切れる。」(カッコ内は引用)

喜嶋先生と橋場君を分けたものは何だったのか

喜嶋先生と橋場君は、かなり似ています。

両者ともに同じ分野の研究者で、研究の世界で師弟関係にあるし、変わり者で、浮世離れしていて、女心に疎いです。

非常に似たタイプの頭脳の持ち主であると言えるでしょう。

橋場君は喜嶋先生のことを非常に尊敬していて、喜嶋先生を語る時、敬語が用いられているぐらいです。敬語がこんなに効果的に用いられている小説は初めて読みました。

橋場君は研究の分野のみならず、喜嶋先生の生き方そのものに深い尊敬と憧れの念を持っていて、それはほとんど熱愛していると言ってもいいぐらいの様子です。橋場君は喜嶋先生に心酔していて、いっさい批判的な目で見ません。

最後の方は、こんな調子です。

橋場君が喜嶋先生の現状に関するうわさを聞いた時の反応。

僕は、この事実を知ったとき、感動して、本当に背筋がぞっと寒くなった。

そんなことをあれこれと想像して、僕は楽しくて涙が出るくらいだった。

僕には、その理由がわかる。

僕には、それが、よくわかる。

しかし、喜嶋先生と橋場君の人生には、はっきりと差が出ました。

まず、橋場君について考えてみます。

橋場君は、非常に変わり者ではあるけれども、自分のことを客観視して社会的にうまくいくように行動することができる人です。

また、周囲の人や状況に対する観察力が非常に優れています。

さらに、とてもラッキーなことに、学部生時代に橋場君をよく理解して愛してくれる女性に出会い、若い時に結婚して、子どもに恵まれて、妻子を大事にします。独身時代とは仕事の仕方も変わります。

変わり者なわりには案外常識的で、親や妻子に配慮した行動をする人物です。

かたや喜嶋先生は、研究者として純粋すぎて、社会性よりも科学を優先しています。

周囲には無頓着な感じです。

まさにその点が、橋場君を魅了してやみません。

橋場君は、喜嶋先生ほどは学問に対して純粋でいられなかったからでしょう。

教授の影が薄い

橋場君が4年次に配属される研究室の教授(森本先生)は、その時点で半年前に「民間企業の研究所から引き抜かれて教授になった人」で、50代のにこやかな紳士です。

1年間は前の職場と兼任で、大学に専念できないので、助手の喜嶋先生を橋場君の指導教官に指定します。

そして、橋場君が修士課程を卒業した3年後、大学を辞めて元の研究所に戻ります。

大学が合わなかったようだ、と描写されています。

森本教授は、喜嶋先生や橋場君とは専門も違います。

橋場君は、研究室にむちゃくちゃ恵まれているという設定

聞くところによると、研究室選びを間違えると悲惨なことになるそうですが、橋場君は師、先輩、同期に恵まれ、足を引っ張る変な人にも遭遇せず、時代も国立大学が独立行政法人になる前で、順調に研究者として成長したという設定になっています。

これは、喜嶋先生を際立たせるために、物語をシンプルにしたのではないかと思います。

恵まれている点を3つ挙げてみました。

教授が紳士

噂によると、教授が暴君でパワハラ体質で、院生などを使い捨ての労働力とみなしている場合、入ってしまうとひどい目にあい、研究者として終わってしまうそうです。

その点、森本教授は紳士で、橋場君を喜嶋先生につけてくれるし、いっさい邪魔しないので、最高です。

先輩の中村さんがむっちゃ面倒見が良くていい人

橋場君が研究室に入って最初に研究指導してくれるのが、博士課程3年生の中村さんなのですが、この人がすばらしく面倒見が良くて、研究の手ほどきするのが上手で、いい人です。

喜嶋先生がよいお手本

喜嶋先生は橋場君にとって理想の研究者で、橋場君は喜嶋先生の薫陶を受けて研究者として一人前になります。

悪気なくパワハラして部下をつぶすタイプでもありません。

橋場君に研究者としての純粋な姿勢を見せ、橋場君の能力を引き出します。

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